ハイライトリップ

側圧の強いヘッドホンをバックパックの奥底に眠らせたまま、数日東北で過ごしていました。


(写真左よりそれぞれ青森県、岩手県、宮城県のハイライト写真)

僕「ねぇこっちの人って週末は何をして過ごしてるの?出かけるところもそう多くなさそうだけど」

彼女「セックス(即答)」

というのが今回の旅の会話のハイライトです。

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スウィート・クリシェ

「なんだよまだ女のひとりやふたりできないのか。俺に似ずにだらしないなぁお前は」

からかい半分、ほんね半分というところ。2人きりで話をする機会ができるたびに、じいちゃんは僕に言うようになった。長いこと付き合っていた前の彼女と別れてからだから大体一年半ほど前からだろうか。

「おいお前そろそろ彼女できたか」、「俺が生きているあいだに結婚してくれないと困るよ」、「あのな、とりあえず彼女ができたら先に子どもつくっちまえ。そしたら結婚なんてすぐだ」。
この手の定型文が大体6つくらいあって、周りに両親の気配がなくなると決まっていつもその中のどれかを選んで話しだす。何を選ぶかはたいした問題でもない。順番が違うだけで、一旦話し始めれば結局そのすべてのパターンが聞こえてくる。

「1週間前にも同じこと訊かれて答えたよ。そんなすぐにできやしないって」

と答えても少しも意に介さず定型文の中からまたひとつ違うものを取り出して返す。

「お前も今年28だろ?お金ないんだったら出してやるからさ。そろそろ結婚しろや」

どの発言も何度聞いたかわからないが、最近はなんだか愛おしくなってきて嫌な感じがしない。
プレッシャーに負けたって訳ではないけれど、近いうちに突然「そういえば実は彼女できてたよ。今度連れてくるわ」と言ってみようかなという気になってきている。 定型文のストックも少し増えるだろうか。それはなんだか楽しみかもしれない。


「そんなところにいたら落ちたら危ないよ!降りておいで!」と飼い猫を諭す祖父

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The Crane Maiden 日本民話“鶴の恩返し”

ここ10年くらいのあいだずっと頭にかかっていた霧のようなものが今年の2月上旬に信じられないほど完全に晴れた。そんなことが起こるなんて想像すらしていなかったので、実際僕はちょっと気持ち悪くすら思ったのを覚えている。驚きというか、気後れというか。遅れましたとばかりに、そのあとやっと“喜び”もやってきた。

考えてもみてほしい。物心ついたときから永遠に霧の晴れない山中に居を構えている男のことを。暖を取るための薪を取りに外にでるときも、雲間から微かに輝く夜空の星を恋人と眺めるときも、決して途切れない霧が辺り一面を包んでいる村のことを。

そこにあるのはネガティブなものではない。陰鬱さ、不幸さ、不明瞭さ。そんなものの気配は感じられない。霧は生まれたときからそこに当たり前のようにあるもので、決して“嫌なもの”なんかではないのだ。となり村の友人が語る“雲ひとつない晴天”はあくまで語りの中に存在するもので、想像こそできたとしても男には実感をともなって理解できるものではない。「そういうものもどこかにあるみたいだけれど、僕にはうまくわからないな。別段うらやましいという気持ちにもならないし。」
男はいつもそう答える。嫌味なく、けれんみもなく。

それに霧まみれの日々の中にも光が差す瞬間がないわけではない。レースのカーテンから漏れ出すような弱い光ではあれどそうした小さい変化は存在するし、実際それは男にとっては大きな変化であった。そんなときでももちろん霧の呼吸が止むことはないが、少なくとも目の前が見えなくなるほどの深く濃いそれではない。なんだってそうだけれど、霧にだって濃淡や度合いのようなものはある。

そこにきて突然の晴天だ。昨日と同じように目を覚まし顔を洗い服を着て外へ出ると、あれほど当たり前のように世界を包んでいた霧はどこにもない。噂どおり雲ひとつなく、文字どおり晴れ晴れとした空。目をこすれども、頬をつねろうとも雲散も霧消もしない日本晴れが男の世界に横たわる。

端的にいえばこのような衝撃が2月の頭に急に僕を襲った。
実際は1月下旬にもう少し予兆のようなものはあって、日々少しずつ霧が晴れてきてはいたのだけど。仕事で何かを成し遂げたとか、節目のようなものを迎えたなどでもないので「一体全体なんで今なんだろう」というのが正直な感想です。ちょうど連日素晴らしい展示や音楽に触れたからだとか、たまたま良いタイミングで借りた本が響いたからだとか、ずいぶんと久しぶりに恋人(可愛いよ!)ができたからだとか、まぁそこらへんの組み合わせなんだろうとは思うんだけど。“快晴”の期間は実際2週間弱で終ってしまったけれど、今はその陽の残り香だけで昔よりもずっと晴れを実感できています。

ああそうそう短いけれど本題。前述の“素晴らしい展示や音楽”の中で、もっとも僕を動かしたバレエダンサー首藤康之さんの生(!)の舞台を先日観に行くことができました。テーマは日本民話“鶴の恩返し”。


ウィル・タケット×首藤康之『鶴』

以前映画で目にしたときよりもずっと、「美しい」という印象が僕の心の中に浮かびあがりました。
首藤康之さんにフォーカスせざるを得なかった映画とは違ってそれぞれの選ばれたダンサーにも目が行き“舞台”として楽しめたのも良かったです。物語はときに悲しく痛ましく、ときに激しく圧倒的で、しかし常に美しく、時間なんてほんとうにあっという間に過ぎ去ってしまいました。

おかげでまた少し晴れ間がのぞいてきた気がします。
明日もまた素晴らしい好天の一日になりますように。

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今年は桜よりも梅を見に

来る日も来る日も梅を殺しています。

しんしんと降り積もった雪にまみれながら枝いっぱいに蕾をつけた梅の木も、そろそろと聴こえる春の足音に気がついてどうだ俺はもう咲いているぞとばかりに誇らしげな梅の木も。全て、一つ残らず。

プラムポックスウイルス。西東京でもここ数年辺り前から感染例が報告され始めたこのウイルスのおかげで、僕はなんの罪もない梅の木を日々切り倒し続けているのです。冷酷に、無残に、そして大量に。

そのウイルスは昆虫を媒体にしてスモモやウメのような果樹に辿りつき、それらの葉や果実の表面に黒い斑紋を生み出します。そして果実を”そうあるべき”時期よりもずっと早く地面に落下させるのです。黒ずんで見る影もなくなった果実を僕らが食したとしても人体には全く影響はありませんし、病に侵された梅の花は例年と何も変わらないかのように美しく開花します。

僕は果樹園を営んでいる訳ではないので経済的打撃は大きくはありません。むしろ仕事が増えるぐらいなのかもしれない。けれど、精神的なそれは自分で思っていたものよりもずっと大きなものでした。目に見えないような小さな黒い点が心の中にぽつりと生まれ、件の斑紋のようにざわざわと拡がってきているのを感じます。

いくら果実に商品価値がなくなろうが、いくら早期落果しようが、彼らの幹や、枝や、花は決して地に崩れ落ちたりしていません。病に伏して尚、美しく、気高く。植物の春とも言える弥生の到来を顕しているのです。でも僕はそんな一生懸命な彼らを容赦なく切り倒します。感染樹をできるだけ減らすことが、いくつかの頼りない防除方法のうちの一つだからです。

根治が見込めない伝染病患者の延命パイプを断ち続けるような毎日の中(しかもその病は彼らに死をもたらすものではない)、やり切れない思いを抱きながら目を覚まします。普段も似たようなことばかりやっていると思っていたのに、全然違うんですね。意図も意思もなく植物を切ることが、命を奪うことがこんなに辛いと思ったのは初めてで。

ごめんね、春を見せてあげられなくって。僕も、君で春を感じたかった。

今年は桜よりも梅を見に出かけよう。できるだけ大きくて、できるだけ格好いいやつを。
病なんてどこ吹く風でのんきに佇んでいる梅を。

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NO MORE BURGERKING BIKING

先週末、久しぶりにバーガーキングへと足を運んでワッパーを口に含んだ瞬間思い出しました。

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『しあわせのパン』

趣味は何かと訊かれる度、いつもほんの少しだけ申し訳ない気持ちになる。訊き手の好奇心に応えられそうな、ストイックでスペシフィックでオリジナルな趣味というのが僕にはないからだ。 続きを読む

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UNDER RECONSTRUCTION

「本棚を洋服箪笥にしよう!」

とふと思い立ち、部屋にある家具を「そうあるべきではないものたち」というテーマで模様替えしはじめたらなんだか止まらなくなってしまってブログの更新も止まっています。 続きを読む

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