The Crane Maiden 日本民話“鶴の恩返し”

ここ10年くらいのあいだずっと頭にかかっていた霧のようなものが今年の2月上旬に信じられないほど完全に晴れた。そんなことが起こるなんて想像すらしていなかったので、実際僕はちょっと気持ち悪くすら思ったのを覚えている。驚きというか、気後れというか。遅れましたとばかりに、そのあとやっと“喜び”もやってきた。

考えてもみてほしい。物心ついたときから永遠に霧の晴れない山中に居を構えている男のことを。暖を取るための薪を取りに外にでるときも、雲間から微かに輝く夜空の星を恋人と眺めるときも、決して途切れない霧が辺り一面を包んでいる村のことを。

そこにあるのはネガティブなものではない。陰鬱さ、不幸さ、不明瞭さ。そんなものの気配は感じられない。霧は生まれたときからそこに当たり前のようにあるもので、決して“嫌なもの”なんかではないのだ。となり村の友人が語る“雲ひとつない晴天”はあくまで語りの中に存在するもので、想像こそできたとしても男には実感をともなって理解できるものではない。「そういうものもどこかにあるみたいだけれど、僕にはうまくわからないな。別段うらやましいという気持ちにもならないし。」
男はいつもそう答える。嫌味なく、けれんみもなく。

それに霧まみれの日々の中にも光が差す瞬間がないわけではない。レースのカーテンから漏れ出すような弱い光ではあれどそうした小さい変化は存在するし、実際それは男にとっては大きな変化であった。そんなときでももちろん霧の呼吸が止むことはないが、少なくとも目の前が見えなくなるほどの深く濃いそれではない。なんだってそうだけれど、霧にだって濃淡や度合いのようなものはある。

そこにきて突然の晴天だ。昨日と同じように目を覚まし顔を洗い服を着て外へ出ると、あれほど当たり前のように世界を包んでいた霧はどこにもない。噂どおり雲ひとつなく、文字どおり晴れ晴れとした空。目をこすれども、頬をつねろうとも雲散も霧消もしない日本晴れが男の世界に横たわる。

端的にいえばこのような衝撃が2月の頭に急に僕を襲った。
実際は1月下旬にもう少し予兆のようなものはあって、日々少しずつ霧が晴れてきてはいたのだけど。仕事で何かを成し遂げたとか、節目のようなものを迎えたなどでもないので「一体全体なんで今なんだろう」というのが正直な感想です。ちょうど連日素晴らしい展示や音楽に触れたからだとか、たまたま良いタイミングで借りた本が響いたからだとか、ずいぶんと久しぶりに恋人(可愛いよ!)ができたからだとか、まぁそこらへんの組み合わせなんだろうとは思うんだけど。“快晴”の期間は実際2週間弱で終ってしまったけれど、今はその陽の残り香だけで昔よりもずっと晴れを実感できています。

ああそうそう短いけれど本題。前述の“素晴らしい展示や音楽”の中で、もっとも僕を動かしたバレエダンサー首藤康之さんの生(!)の舞台を先日観に行くことができました。テーマは日本民話“鶴の恩返し”。


ウィル・タケット×首藤康之『鶴』

以前映画で目にしたときよりもずっと、「美しい」という印象が僕の心の中に浮かびあがりました。
首藤康之さんにフォーカスせざるを得なかった映画とは違ってそれぞれの選ばれたダンサーにも目が行き“舞台”として楽しめたのも良かったです。物語はときに悲しく痛ましく、ときに激しく圧倒的で、しかし常に美しく、時間なんてほんとうにあっという間に過ぎ去ってしまいました。

おかげでまた少し晴れ間がのぞいてきた気がします。
明日もまた素晴らしい好天の一日になりますように。

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